山本太郎の叫び -人間と動物と国家-

山本太郎は、繰り返し街頭演説で「そのまま生きてていいんだよ!」と叫んでいる。この言葉は、常に競争で生き残ることと自己責任が強調される社会の中で、「ほんとうに自分が生きている価値があるのか」と強迫観念的に自問し、ときに絶望し、自死さえ選ぶ人たちに対して向けられたものだ。

この山本太郎の言葉は、しかし、このような文脈を超える問いかけを含んでいるように思える。それは、人間と動物世界の関わり、そして国家とは何かである。

そのままの生」を肯定することは、国家や社会による生の価値づけ(善いvs悪い、高いvs低い、価値vs無価値)を拒否することである。つまり究極的には、国家や社会以前に生を置くことを意味している。

そしてそれは、人間の生を動物の生と重ねることになる。なぜなら動物の世界には当然にも人間の国家や社会は存在していないからだ。家畜動物にしても、彼らの生と関わるのは動物としての人間であって、国家や社会ではない。

人間を動物としてみることは、動物との平等性を招き寄せることになるとともに(たとえば商業目的で大量に動物を殺害する権利を人間は誰によって与えられているのか)、国家や社会の価値付けから身を引き離し、動物として生きることを手探りしていくことになるだろう。だから山本太郎の叫びは(本人がどれだけ意識しているかどうは別にして)、根源的にはこの問いかけを含むものだ。

だが、そもそも人間は国家や社会から身を引き離すことは可能なのか。

動物も多くは群れとして生きている。動物としての人間もまた群れの中で生まれ、群れの一員として行動する。この群れをいちおう社会と呼んでおこう。人間は社会的動物であり、社会から孤立して生きていくことは困難である。何よりも、人間がたがいに意思疎通するために不可欠な言語は社会によって与えられる。

だが、人間と他の動物と決定的に違うのは、ある歴史的時点で、群れである社会が群れを構成する個々の存在を超越した存在となり、群れを統制支配し、奴隷としての人間を抱えるようになることである。つまり、人間の群れである社会は「国家」を形成し、内部に身分的な階層を作り出し、構成員を支配すると同時に、他の群れに対して戦争するにいたる。だがもちろん動物世界に国家は存在せず、戦争はない。

ここで少し補足すれば、今の述べたように、国家は社会内部から自成的に生み出されるのではなく、かならず戦争を契機に形成されるという推測も成り立つ。つまり、国家と戦争(それが外部の群れからの攻撃という形をとるか、逆に自ら外部の群れに対して仕掛けた攻撃かを問わず)とは成立から不可分の関係にあるという考え方である。ここで詳しくは触れられないが、国家と区別される戦争機械という概念を立てると(ドゥルーズ/ガタリ)、自成説よりもこの推測が成り立つ可能性のほうが高いだろう。

重要なことは、いったん成立した国家は(臣民、国民、市民などと呼ぶ)その構成員の「動物としてのそのままの生」を放置することができず(放置するのは外国の支配領域下にある人間だけである)、彼らに必ず国家に対する関係を持たせ、包摂し(同時に特定の属性を持つ人間を排除し)、その生に対し生殺与奪の権力を持つことである。

国家の構成員に対する権力は、戦争に最も端的に表れる。国家がその誕生からそうだったかは必ずしも明らかではないが(だが上で述べたように恐らくそうである)、少なくとも20世紀に入ってからの戦争は、全面戦争、総力戦であり、国家は構成員全員に戦闘参加を要求し、死を命じるようになっている。つまり構成員全員が死亡し、国家が自滅することさえ国家は厭わないのである。国家が最終的には構成員の絶滅を目指さざるをえない存在であることについては、『絶滅装置としての国家』で触れているので参照していただければと思う。

この事実は次の問いを生む。

群れとしての社会は実在する。それは家族から、群れとしての生活需要まかなうための生産分業システムにまで広がっている。だが国家はどうか。それは群れを構成する人間たちが共有する観念、幻想に過ぎないのではないか。ここで「実在」という言葉を、もし人間社会に何らかの力を及ぼすものと定義するなら確かに国家は実在するといえるだろう。だとすると国家とは何かという問いは、一つの観念、幻想に過ぎないものがどうして人間社会で力を持つのかという問いに置き換えることができる。

もちろんこれは難問だが、これを解くための一つの鍵は、「国家なるものが、その名において、戦争や非常時に構成員全員に死を命じる権利を持ち、国家それ自身の自滅さえ厭わないもの」だとすれば、これが一つの巨大な矛盾を構成するということにあるだろう。

人間が、なぜ自らの生を意のままにし、時に一方的に死を命ずる国家権力を承認するのか。人間が動物であり、動物としてその生をただそのまま生きることがその本来の存在である以上、自ら進んで死を受け入れることは本来ありえない。確かに生は死に向かうものであるが、生の途上で進んで死を望むことは矛盾である。

だとすれば、この矛盾を承認するのは「止むを得ず」ということになる。そして考えられる「止むを得ない」理由はただ一つである。それは抵抗すれば死をもたらす他者の暴力以外にない。ある歴史的時点で、群れ内部の一部の人間が(あるいはすでに国家を形成した他の群れによる戦争という形で)他者である人間たちに反抗が死をもたらす暴力を振るい、制圧し、支配したこと、この根源的暴力こそ「国家」の起源だと考えるしかない。だとすれば国家は常に構成員に死を命じうる権力であり続けることになる。

そう考えてくると、山本太郎の「そのまま生きてていいんだよ」という叫び、呼びかけとは、それをもっとも遠方まで延長すれば、死を命ずる絶滅装置である国家から身を引き離し、離脱し、できるだけ人間が「そのままの生」でありえるような、人間と動物が平等であるような、国家を廃絶した社会を実現する根源的な呼びかけに思えてくる。

*本ポストは、noteに掲載した記事に若干の補足を加えたものである

07.02.2020